神域の花嫁 46~57「なあ、凛太郎。見てくれた、俺のリレーでの雄姿を?」青空の下、ハチマキをなびかせながら、 明は凛太郎のもとに駆け寄ってきた。 「よくやったな、明」 「明くんのラストスパートのおかげで、私たちのクラスは勝てたようなものね!」 明に、笑顔のクラスメイトたちが声援を送っていた。明はそれの一つ一つに愛想良く手を振って答える。 凛太郎は、彼らの笑顔を見ると複雑な心境だった。 まだあどけなさの残る彼らが、昨日、自分のせいで悪鬼の形相を浮かべて、襲いかかってくる存在になっていた。 幸い、明がうまく手加減したおかげで、ケガはなかったのが、せめてもの救いだった。 偶然、凛太郎と友達を引き連れて歩いていた里江の目が合った。 里江は、一瞬凛太郎に胡乱な視線を送ってからすぐに目をそらせた。 明の記憶消しの術はたしかに効いているはずだ。その証拠に、クラスメイトたちは今朝、昨日はダンスの練習のせいで遅くなった、受験勉強に響くとぼやきあっていた。 でも、今の里江の不審そうな顔つきは、凛太郎の心に暗い影を落とした。 なんとなく「お前と関わり合うと、ロクなことはないから、無視することにした」と言われたような気がした。 「うわっ!」 凛太郎は軽く悲鳴を上げた。いきなり明に抱きつかれたのだ。明はぐりぐりと凛太郎の頭を撫でながら、頬をすりつける。 「やめろよ、明。みんなが見てるだろっ」 周囲はクスクスと笑いながら、周囲の人間は凛太郎たちを見ていた。凛太郎はぐいぐいと明の体を押しやったが、凛太郎よりひとまわり大きな明はビクともしない。 「どうして僕が命令してるのに、明は放してくれないの? 呪はどうなったんだよ?」 凛太郎は小声で明に尋ねた。 「へへーん、呪って言うのはな、指令をかけたものが、心の底から相手に命令しないと聞かないことになってんの。でないと、お前が冗談で言ったことも、俺はすべて実行するってことになっちまうからな」 そこで、明は凛太郎の耳元にささやいた。「つ・ま・り。お前は本気で俺に放して欲しいって思ってないわけよ。かーわいいねえ、凛太郎ちゃん。素直になれない恋心ってか?」 明はよりいっそう強く凛太郎を抱きしめる。 やめてよ、と凛太郎が精一杯拒絶を示すよう、努力をこめて言おうとした時。 「ねえ、呪ってなあに?」 快活な声が、二人の背後から聞こえた。 凛太郎と明が同時に振り向くと、ほのかと乃梨子がそこにいた。 「おお、乃梨子ちゃんにほのかちゃん! 乃梨子ちゃん、さっきの短距離走ぶっちぎりすごかったな!」 乃梨子は親指を立てて明にウィンクしてから好奇心いっぱいに、明にもう一度訊いた。 「それって、食べ物か何か? それとも、おまじない? 命令がどうとかっていう言葉も聞こえたんだけど……」 「あ、あの~、えっとォ……」 凛太郎は硬直しながら、そう言うのがやっとだった。 明は凛太郎の脇腹をつっついた。 「おいおい、脇が甘いなあ、凛太郎ちゃんよォ」 「何だよ、明だって……」 明は凛太郎の言葉をさえぎって、ほのかに目を向けながら言った。 「ほのかちゃん。その手に持ってるやつ、何だい?」 ほのかはおずおずと後ろ手に持っていたものを差し出した。 ふろしきに包まれた黒塗りの重箱だった。「こ、これ、みんなで食べようと思って持ってきたの……」 数分後。 凛太郎と明は、ほのかたちと一緒に重箱をつついていた。 凛太郎の取り巻きたちは、ほのかに嫉妬を燃やしていたが、ほのかが弁当を供応するとすぐに機嫌を直した。 人間、食い気には勝てないらしい。 「清宮くん、どう?」 ほのかは、ふっくらした頬を桜色に染めながら尋ねた。 凛太郎は、里芋の煮っ転がしを口に運びながら答えた。 「おいしい! おばあちゃんが作ってくれてたやつと味がよく似てる。里芋本来の風味がちゃんと残ってるんだけど、しつこくないんだ。これって、結構難しいんだよね。どうやって、おだし取ってるの?」 「あ、後で教えるね」 ほのかは、「もっと食べる?」と嬉しそうに尋ねた。 その笑顔が、凛太郎の胸には痛かった。 ほのかのふっくらした目元には、青黒い隈が浮き出ている。幼いほのかの顔立ちには、それはなんとも不釣り合いだった。 昨日の疲れとショックはまだまだほのかには残っているはずだ。それに、ほのかは凛太郎におびえたり、明を化け物とさげすんだりすることもなかった。 それどころか、こうして弁当を作ってきてくれている。 「藤崎さん……僕と明のこと、怖くない?」 凛太郎はほのかの耳元に、に小声で尋ねた。 乃梨子や他のクラスメイトたちたちは明の話に笑い転げていた。明はリレーの最中、転びそうになって、ジャージのズボンが脱げそうになった苦労話を大まじめにしていた。 ほのかは箸を握ったまま、しばし考え深い横顔を、凛太郎に見せていた。 「怖い」 小さくほのかは言った。凛太郎は胸の痛みを感じながらも、ほのかの率直な意見を聞こうとする。 ほのかは凛太郎にまっすぐ顔を向けた。 そして小さいが、はっきりした声で言った。 「でも、好き」 「え?」 凛太郎の頬は熱くなった。そよ風が、凛太郎の頬をさますように吹いた。 ほのかは何度も瞬きしながら言った。 「私ね、おばあちゃんがお花の先生してるの。だから、小学生の頃からまだとっても下手なんだけど、生け花やってるの」 ほのかは言葉を探すように、箸を手にとって何度も握った。 「それでね、生けやすい花と、そうでない花ってあるの。花自体はすごく綺麗なんだけど、いざ活けようとすると茎や枝が堅かったり、反対に花びらがすぐ落ちちゃう花」 凛太郎は、何度も瞬きしながら話すほのかに、新鮮な驚きを感じた。こんなに一生懸命、生き生きと話すほのかを見たのは初めてだった。 「そういう花を、嫌いだって言って避ける人もいる。でもね、私はそれは人間の都合だと思うの。生け花っていうのは、あくまで人間が作った芸術なの。人間が勝手に、自分の思うように、花をいじくって、自分の好みにあてはめていくだけだって言う人までいるくらいだから。でも……」 ほのかは、少しうつむきながら慎重に語り続ける。 「私はたまに、花の声が聞こえるような気がすることがあるの。今日は晴れてて気持ちいいね、とか雨が降って嬉しい、とか。そんな時、花と人間が気持ちを通じ合わせられることだってあるんだなあ、って思うの。植物と人間で、大きな違いはあるんだけど」 ほのかは凛太郎に微笑みかけた。ふわっとした笑顔が、まばゆい露となって凛太郎の心にしみいった。 「清宮くんと、木原くんは、昨日、いっしょけんめい、真剣に私のことを守ってくれようとしたよね。私、それだけでいいの。それだけで、二人のことを、怖いけど、信じられる。だって、清宮くんも私のことを信じてくれたから、記憶を消さなかったんでしょ?」 ほのかの笑顔が、凛太郎の視界でぼやけた。 「風で、目にゴミが入っちゃって……」 凛太郎は照れ笑いしながら、ぐいぐいと手の甲で目をこすった。 「私も……」 ほのかも鼻をすすりながら、目頭に手を当てる。 明が、他のみんなの注意を惹きつけておいてくれて幸いだった。明は凛太郎にウィンクして、小さく「良かったな」と言った。「何が良かったの、明くん?」 めざとく乃梨子が聞きつけて、尋ねる。 「いや~、乃梨子ちゃんが今日はひときわ可愛くてよかったなあって……」 「ええー、明くん、私はァ?」 「君もカワイイよ、もちろん」 明は乃梨子以外の女子にもかわいい、と言いまくる羽目になった。 「藤崎さん、どんな花が好きなの?」 凛太郎は、照れ隠しにほのかに尋ねた。 ほのかはポケットから取り出したハンカチで涙をぬぐいながら答えた。 「桜。あの、はかないんだけど、凛としてて、芯が強そうな感じが好き……」 「僕も」 凛太郎は大きくうなずいた。今はもう散ってしまった校庭の桜。そして、鈴薙があの夜、凛太郎に見せたまぼろしの桜が目に脳裏によぎる。 小さなころから、桜を見ると、奇妙に切なくなった。大切な、けれど、思い出せない記憶がそこにあるような気がする。 (まさか、僕の前世で、なにかが……) 凛太郎はフッとそう思った。 だが、何も思い出せなかった。 凛太郎の物思いを晴らすかのように、ほのかが明るい声で言った。 「ねえ、清宮くん。今度、桜の季節になったら、私、桜を生けようと思うの。私、いつもおばあちゃんと生徒さんの作品展に、一点だけ展示させてもらってるんだけど、見に来てくれる?」 「うん、行かせてもらうよ。絶対に」 凛太郎は大きくうなずいた。 クラスのみんなや乃梨子、そしてほのか。 みんな今、昨日の惨状が嘘だったように幸せそうに笑っている。 (みんなを僕が守らなきゃ――。僕のせいでみんなをあんな目に二度と遭わせちゃいけない――!」 ほのかの笑顔を見つめながら、凛太郎はそう決意した。 「やめてよ、明……もういいだろ?」 凛太郎は、隣から伸びてくる明のたくましい腕を振り払いながら言った。 ベッドから起きあがって、汗に濡れた髪をかき上げる。体に触れる外気が心地よい。 凛太郎は、自室の窓辺から月を見上げた。 明が張った結界の内側からとはいえ、月灯りはさらさらと生まれたままの姿になった凛太郎の上に落ちた。 昨日の晩、秀信と見上げた月よりも少し欠けていた。 秀信が、もし今の自分の姿を見たら何と言うだろう。鬼に抱かれた後の、肌の色も染めやらぬこの姿を。 凛太郎は息を詰めた。 いきなり、背後から明に強く抱きしめられたからだった。 緑の髪をした鬼は、背中から凛太郎をひとおもいに抱きしめた。凛太郎の首筋に顔を埋めて、唇を寄せる。 「あっ……」 その感覚に、凛太郎は甘くしびれた悲鳴を上げた。 (こんな声、先生に聞かれたら、先生、僕のことなんて思うだろう) そう考えた時、凛太郎の脳裏に乃梨子の顔がよぎった。勾玉に取り憑かれた乃梨子のうつろな顔。 『お前たちは、汚い。男同士で、鬼と人間であんなことをするなんて……』 乃梨子の言葉は、抜けないトゲのように凛太郎のこころに突き刺さっている。 勾玉は人間のこころの隙につけ込む。秀信はそう言っていた。乃梨子のこころの隙とは、明に抱かれている凛太郎を乃梨子が見てしまったことではないか。それに、乃梨子は悩んでいたのだ。 明が記憶を消したと言っても、それは解決にはならない。乃梨子がもし記憶を取り戻したら、きっと乃梨子は凛太郎を「汚い」とまた思うだろうから。 凛太郎は、明の胸元をまさぐる明の手をはらいのけた。 「何だよ?」 美しい鬼は、口をとがらせて背後から、凛太郎の横顔をのぞきこんだ。浮き世離れした顔に似合わない、子供っぽい表情だった。 「今夜はもういいだろ。さっき一回したんだし……」 凛太郎は明から顔を隠すようにうつむいた。愛撫に潤みかけた瞳を見られたくなかった。 「俺はなあ、ゆうべの乱闘でケガしたの。だからお前の気で、傷を癒やしたいんだよ」「もうとっくに治ってるじゃないか」 凛太郎は自分の肩に回された、明のたくましい腕を取って指摘した。悪鬼と化したクラスメイトに噛まれた明の腕にあった傷は、あとかたもなく消えていた。 明はでへへ、とわざとらしく笑った。 しばしの間の後、明がポツリと言った。 「凛太郎、お前さあ……」 明は、凛太郎の頭の上に、自分の顎をのせながら言った。 「ひょっとして、乃梨子ちゃんがお前に言ったこと、気にしてるとか?」 「……」 「図星だな」 明は、凛太郎の前に回り込んだ。すでに見知った体ではあるが、鬼の裸体は凛太郎の息を飲ませるのに十分すぎるほどの美しさをたたえていた。 明はめずらしく困惑気味に、切れ上がった目をすがめていた。 「乃梨子ちゃんもよォ、他人の愛に口出ししないでほしいよな。なんかちょっと前のお前みたいだよな。けがらわしい、なんつって」 明はケタケタと笑った。 「だいたいよォ、俺らの愛し合う行為をのぞき見してる方がよっぽどやらしいよな。何だったら混ぜてあげるのにー、なんつって……あ、怒った? 凛太郎ちゃん?」 「……結界張り忘れる明も悪いんだろ」 「あら~、そうだったね。俺ったらドジっこでェす、なんちゃって……」 明はコツン、と自分のオデコを叩いて、ペロっと舌を出した。鬼が取るおちゃめポーズにも凛太郎は関心を示さずに、視線を下に落としている。 「もうっ、ボケてるんだから、ツッコんでくれよ、凛太郎!」 明は、気まずさを押し隠すように笑った。 凛太郎は、ほとんど明に関心を示さず、ペタン、とベッドに座った。このまま明が部屋から出ていってくれればいいのに、と思った。 これ以上、罪悪感を引きずりながら、快楽に溺れたくない。 凛太郎が唇を噛みしめた時。 凛太郎の体は、ふわりとしたものにつつまれた。 膝をついた明が、優しく凛太郎を抱きしめたのだった。 「あ、明……いきなり何するんだよ……」 明の肩に顔をうずめた格好の凛太郎が、くぐもった声で言った。明の少し獣じみた匂いが鼻孔をくすぐる。 「お前さ、乃梨子ちゃん以外にも、いや、それ以上にあいつのこと考えてるだろ」 明はそこで顔を上げて、こつん、と凛太郎と自分の額同士をくっつけた。 「弓削秀信、のことをさ」 図星を突かれた凛太郎は黙って明から視線をそらせた。明は少し寂しそうに笑った。 「べつに俺はあいつのことを毛嫌いしようとしてるわけじゃねえ。けど……」 明は凛太郎の頬に両手を当てて、言い聞かせるように語った。凛太郎は明の真剣な様子に押されて、明に視線を戻した。 「あいつは、どうも嫌な感じがするんだ。俺は長い間生きてるだけあって、そのへんの勘には自信がある。あいつの目は、平気で自分の邪魔になるヤツを殺せる人間の目だ」 明はそこでいったん言葉を切った。普段はおおらかな光をたたえている鬼の切れ上がった双眸は、めずらしく激しい嫌悪をたたえていた。凛太郎は明に反論したいと思うより先に、そんな明の様子に驚いていた。 「俺は、ああいう手合いを時たま見てきたよ。いわゆる権力者ってやつになろうとしてる人間の目だ。あいつらに比べたら、鈴薙のヤローの方がまだ可愛いくらいだ。少なくともあいつは、自分の欲で動いてるわけじゃないし、本気でお前のことが好きだ。俺と同じでな。だから俺は、鈴薙が気にいらねえわけなんだが」 明は少し自嘲するがごとく、鼻を鳴らして笑った。 「……先生は、そんな人じゃないよ」 ポツリ、と凛太郎は言った。 「だがよ、凛太郎。俺の言うことも……」 凛太郎は自分の頬をつつんでいた、明の手を振り払いながら言った。胸がきりきりするほど痛くて、苦しかった。自分のようやく見つけた、信じられる大人を奪われる苦しみだった。 「だって、だって、先生は僕の母さんと血がつながってるんだもん。僕の母さんを優しい、いい人だって言ってくれた!だから、だから……」 最後の方は、ほとんど涙で言葉にならなかった。頬にこぼれ落ちる涙をぐい、と凛太郎は手の甲でぬぐった。 「よしよし。お前を泣かせちまって、俺って悪い鬼だよな。鈴薙もビックリ! だ」 明は茶化した口調でそう言いながら、凛太郎の頭を撫でた。凛太郎は、明の広い肩に顔をうずめて、しくしくと泣き続けた。 「……そっか」 不意と思いついたように、明は言った。 「お前がつけてくれた俺の名前は、明。それでお前の母さんの名前は、アキコさん……だったっけ?」 「……うん」 涙がにじんだ声で、凛太郎が答える。 明は幼子をあやす親のまなざしで微笑んだ。 「そのアキコのアキって、俺の明って名前と同じで明るいっていう字を使ってるのか?」 「そうだよ。悪い?」 「……お前って、結構マザコンだったんだな」 「うるさい! 悪かったな!」 涙でベタベタになった顔を上げて叫ぶ凛太郎に、明はそっとくちづけた。不意をつかれて毒気を抜かれた凛太郎に、明は優しく微笑みかけた。 「悪くなんかねえよ。ありがとよ、お前の大事な母さんの名前から、名付けてくれて。それでこそ俺もお前に呪をかけられた甲斐があるってもんだ」 明の瞳に抱きしめられて、凛太郎の視界はふたたび見る見るうちに曇った。明の胸に顔をうずめて、凛太郎は声をあげて泣き出した。 なぜだか、無性に泣きたい気持ちになったのだ。この鬼に甘えたい、と思った。 「おい、どうして泣くんだよ。俺が謝ってるっていうのにさ」 「……わ、わかんない。でも……。なんか切なくて……」 明は凛太郎を抱きしめながら、子供をあやす格好で小さくゆらした。 「あ~、よしよし。まったく凛太郎ちゃんは手がかかりまちゅねえ」 しばし後。明は凛太郎の顔を優しく持ち上げながら言った。 「俺、もうあの先生とお前のことには口出ししねえことにするよ。お前にとっちゃ、大切な人だもんな」 凛太郎をひた、と見据える鬼の双眸は、湖のごとく澄んでいて、優しかった。その瞳の中で眠っていたい、と凛太郎は思った。 「これでいいだろ?」 凛太郎は静かにうなずいた。明の助言を聞くべきでは。心のどこかにいるもう一人の自分がそう言っていたが、凛太郎はそれを無視することにした。 「だから、さ」 明はそっと凛太郎の体をベッドの上に押し倒した。 「もう一回抱かせろよ……いいだろ?」 明の声は少しかすれていて、ひどくあまやかだった。 「……いいよ」 凛太郎はそっと目を閉じた。 明がそっと覆い被さってくる。大きな羽にくるまれてるみたいだ、と凛太郎は思った。 明の舌が、凛太郎の涙をなめとった。それからその舌は、なめらかに凛太郎の口腔をまさぐり、やがて凛太郎のすべてをたかぶらせていく。 「お前が好きだ、凛太郎」 くぐもった声で明が言った。もっとも恥ずかしく、敏感な部分を明に明け渡しながら、凛太郎はひりつく快感の中でその言葉を聞いた。 明の喉がごくり、と動く音がした。 「ああっ!」 凛太郎はうめいた。凛太郎の汗に濡れて震える体を、明は大きな腕でかきいだいた。 「好きだ。大好きだ。お前のためなら、俺は何だってする。俺はどうなってもかまわねえ」 明が押し入ってきた。凛太郎の体は、苦もなく、いや進んで明を受け入れる。 「だから……だからさ、今だけ俺に全部をあずけてくれよ」 身を進めながら、明が言った。凛太郎は大きく白い喉をそらせて、明の広い背中に両手を回す。明の体はがっしりとしていて、あたたかかった。 「あ、ん、やっ……気持ちいっ……!」 凛太郎の中で、明が渦巻いている。それが苦しいほど心地よくて、凛太郎は悲鳴をあげてしまう。 「好きだ、凛太郎」 明は凛太郎をつらぬきながら、うわごとのように何度もつぶやいていた。 めまいに落ちる瞬間、凛太郎が見たものは、自分に向けられた明のまなざしだった。 それは、限りなくいとおしさに満ちていて、その愛情のためになにかをあきらめたような瞳だった。 凛太郎の住む町から、祥の運転する高級車を飛ばして、二時間あまり。 「そろそろ到着するぞ、凛太郎」 秀信の声で、凛太郎は目覚めた。バックミラー越しに、祥が微苦笑しながら自分に視線を投げかけているのが見える。 ハッとして隣を見ると、明が凛太郎の方にもたれかかって、よだれを垂らして寝ていた。 「うにゃあああ……もう食べられない……」 明はもごもごと寝言を言っている。助手席の秀信が、フッと笑った。 明の横で、自分も居眠りしていたのを秀信に見られたのだと思うと、凛太郎の頬は熱くなった。いくら早朝に秀信たちが迎えに来たからと言って、いぎたない寝顔を見られるのは恥ずかしかった。 (ふだんは僕だって、五時起きで学校に行ってるのに……。昨晩、なかなか寝かせてくれない明が悪いんだ!) 昨夜の明の熱い体の感触を思い出して、凛太郎の頬はさらに熱を帯びる。 「何を赤くなっているのだ、凛太郎?」 バックミラー越しに秀信に問われて、凛太郎はしどろもどろになった。 「え、えーっと……、その……」 照れ隠しに、凛太郎は明の耳元で怒鳴った。 「起きろ、明!」 「え、ええっ?」 明はびっくりして目を開けたが、すぐにまぶたを閉じようとする。 「起きろったら!」 凛太郎は自分にもたれかかっていた明の頭を払いのけた。後部座席から転げ落ちそうになった明は、頭を押さえながら体勢を立て直した。ふくれっつらで明はぼやく。 「まったく乱暴なんだからよォ、凛太郎ちゃんは……。チューで起こしてくれるくらいのサービス精神を持てよ」 「バ、バカ! 先生の前で変なこと言うな!」 凛太郎が明の口を押さえようとした時。 車が止まった。 「ほらほら、ケンカしないで、凛太郎様」 祥がおどけた口調で、自動車の扉を開けた。 「ここが弓削家邸宅だ」 凛太郎たちより一足先に車から出た秀信は、凛太郎をエスコートしようとした。 だが、明が強引に自分から凛太郎の手を取った。 「足下に気をつけてね、凛太郎ちゃん。ついでにスケベ教師にもご注意よー、だ!」 明は芝居めかした口調でそう言って、秀信にあっかんべえをした。 秀信は背広につつまれた肩をすくめて、苦笑した。 うろたえながら、凛太郎が明をいさめようとする。秀信の顔色がどうにも気になった。 「明、先生になんてことを……」 そこで凛太郎は声をひそめた。 「ゆうべ、僕と先生のことには口出ししないって言ったじゃないか!」 「でも、あいつにケンカを売らないとは言ってねェ」 「そんな、ヘリクツだよ!」 凛太郎と明の言い合いが始まろうとした時。 ふたりは息を飲んだ。 高い門が開いて、そこから広々とした邸宅のシルエットがそびえ立っていたからだった。 そこはまるで、古文の教科書で見た貴族が住む御殿だった。白い壁の上には、精緻に装飾された屋根が乗っている。 「昔ながらの名家、ってやつか。どうせ代々権力者ってやつの犬にでもなって稼いだ金で建てた家なんだろう?」 凛太郎は明をにらみつけた。明は無視を決め込んで、秀信の後ろについていく。秀信は何も言わずに、祥と並んで屋敷に向かって歩みをすすめた。 玉砂利の上の敷石を幾十も踏んだ後で、凛太郎たちは弓削家邸宅の入り口前に立った。 「帰ったぞ」 秀信が一言かけると、髭をたくわえた初老の執事が扉をおごそかに開けた。 「お帰りなさいませ、秀信様」 執事がそう言うと、一斉に揃いの黒服を着た男と女が頭を下げていた。凛太郎は目を剥いた。メイドや執事というものを実際にこの目で見たのは初めてだった。振り向いた祥が、満足げにニッと笑った。 「弓削家にお仕えする人間は総勢三百人います。この屋敷の他にも」 「ケッ、自分のことくらい自分でしろっつーの。でもあのメイドの娘、可愛いな……」 年若いメイドにやにさがっている明を凛太郎は思いっきりつねった。 「嫉妬するなよ、倫太郎ちゃん」 明はでへへ、と笑った。 「楽にしろ」 秀信が一言発すると、彼らは頭を上げ、 秀信の持っている荷物を受け取って、どこかに運び去った。 「凛太郎さま。何かお荷物があれば、私どもがお部屋にお持ちしますが……:」 執事に言われて凛太郎は面食らった。 「ぼ、僕の部屋って……」 「私がすでにお前専用の部屋を用意させておいたのだ。この屋敷のものは皆、お前を歓迎している」 秀信が、凛太郎に微笑みかけた。安心させるような微笑みだった。秀信が、凛太郎に微笑みかけた。凛太郎を安心させるような微笑みだった。 「ぼ、僕の部屋? そんな悪いです」 凛太郎は顔の前で大きく手を振った。 「何を言う。お前は決して、弓削家とは無関係ではないぞ。なぜなら、お前の母上はこの家でかつて暮らしておられたのだからな」 執事が、うやうやしく礼をしながら言った。 「ご案内しましょう、凛太郎様。あなたのお母様、明子様がお使いになられていたお部屋に」 三階に上がり、広々とした渡り廊下をいくつか越えた所に、その部屋はあった。 瀟洒な飾りのついた白い扉を開けると、品の良いアンティークの家具やベッドが凛太郎の視界に広がった。 風がそよぐ窓辺には、レースのカーテンがやわらかくそよいでいる。 「わあ、いい眺め……」 凛太郎は、窓辺からの景色に思わず声をあげた。そこには、弓削家の庭園、そしてその遠くに広がる街並みが見渡せた。 「明子さまもよくそう言っておいででした。お小さい時には、よくそこから身を乗り出して外を眺めておいでで、私どもを困らせましたよ」 執事が皺が刻まれた目を細めながら言った。 秀信と祥は、執事の話を食い入るように聴く凛太郎をほほえましげに見つめていた。 凛太郎は母の思い出のこもった部屋の調度品の数々を、目を輝かせながら見回していた。 明は、部屋にある人形のスカートをめくっていた。 そのうちに凛太郎は、思い切って執事に尋ねて見ることにした。 「あの、僕の母さんの写真とかないでしょうか?」 その時だった。 パタパタという足音の後で、部屋のドアがすぅっと開いた。 そこから顔をのぞかせた人影に、凛太郎は見覚えがあった。 「君、以前に神社の境内で……」 凛太郎の言葉に、栗色の髪をおかっぱ頭にしたその少年はさっと姿を隠した。 「晴信様。今さら隠れても無駄ですよ」 幼子をいさめるような口調で、祥が言う。 晴信と呼ばれた少年は、白い頬を桜色に染めながら部屋にそっと入ってきた。 年の頃は十二歳ほどだろうか。。凛太郎より頭一つ分ほどは低いから、身長はせいぜい百五十センチといったところだ。白い上着と、あさぎ色の袴から成る巫子装束を身につけていた。 少年のおかっぱ頭はゆるくカールがかかっていた。だから、どことなく西洋人形が日本の袴を着ているようなミスマッチなかわいらしさがあった。 少年は凛太郎を上目遣いでじっと見ている。大きな瞳はうるんで、どこまでも熱っぽかった。崇拝者に向けるまなざし、と言っていい。 凛太郎は照れくさくなって、少年から目をそらした。すると少年は「あっ」と残念そうな声をあげた。 「晴信様、自己紹介は?」 祥が声をかけると、少年は袴の裾をいじりながらうつむいて、もじもじと小さな体をゆすった。 「なんだかこの子、お前に惚れてるみたいだな」 明があきれ顔で凛太郎に耳打ちした。 「どうして僕が男の子に惚れられなきゃならないんだよ?」 凛太郎はそう小声で言い返したが、少年のまなざしを見ればさもありなんだった。 凛太郎はこほん、と咳払いをしてからできるだけ優しい声で言った。 「はじめまして……じゃないよね? たしか君、祥さんと鬼護神社で僕と明に道を尋ねたよね。僕、清宮凛太郎。今日からここで、お世話になります」 「俺、木原明。よろしくな!」 凛太郎と明は、少年に同時に手を差し出した。 少年は躊躇せず、凛太郎の手だけを取る。 「このガキめがっ」 明がひきつった笑いを起こした。 凛太郎の手をきゅっ、と握りながら、伏し目がちに少年は言った。少年の手はまだ子供らしく、やわらかな感触がした。 「ぼ、ぼ、僕……晴信です。弓削晴信っていいます!」 「晴信……?」 凛太郎はおうむ返した。 「君、まさか弓削先生の……」 「そうです、弟です」 頬を染めながら、少年――弓削晴信は、誇らしげに薄い胸を張った。 「うっそー! 全然似てねえじゃん!」 明はのけぞった。凛太郎も目を剥く。 見るからに冷静沈着な秀信と、このひなぎくを思わせる少年は兄弟どころか、親戚にも見えなかった。 「そうなんです。僕、兄さんに比べて、ちっともしっかりしてなくて……」 晴信はしょげて、小さな肩を落とした。 「いや、似てない方が幸せだって。お前の方がずーっと性格が良さそうだから」 明が秀信を横目で見ながら、晴信の肩を抱いた。 「何言うんですか! 兄さんはすばらしい人ですっ」 晴信がキッと明をにらみつけた。子猫が毛を逆立てたくらいの迫力はある。 「晴信様、およしなさい。凛太郎様があきれておいでですよ」 祥にたしなめられて、晴信はハッと凛太郎を見た。凛太郎と目が合うと、ふたたび晴信は真っ赤になって、にまにまと微笑み出す。 その時、ふたたびドアが開いた。 「晴信、いるかっ?」 入ってきたのは、五十代前後の男だった。 上背が高く、がっちりとした体躯を紺色の背広につつんでいる。細面で、つり上がった目元はいかにも鋭かった。 背後に幾人もの黒服の部下を従えているその姿は、どうにも威圧的だった。 「お、おじさま……」 晴信はおびえたように、身をすくめる。 晴信の盾になるがごとく、秀信は晴信の前に立った。 「おじさま、お久しぶりです」 秀信は、その男に丁重に頭を下げた。祥もそれに従う。 秀信たちには目もくれないで、その男は晴信を怒鳴りつけた。 「神事も放ったからして、こんなところで何をしている? お前は、神に仕えるためだけに存在している人間なのだぞ。早く宮に戻れ!」 晴信はビクン、と身をすくめて、兄の腰にしがみついた。秀信は、晴信の小さな手にそっと自らの手をかさねる。 凛太郎は、秀信のその優しいしぐさを見のがさなかった。 男は舌打ちした。秀信の脇に回り込み、晴信の腕を強引につかもうとする。 男のその手を、秀信は素早くつかんだ。 「は、離せ!」 男は秀信の手を振り払おうとした。が、秀信は微動だにしなかった。 黒服の従者たちが、秀信を取り囲もうとする。祥が一歩歩み出ると、彼らは引き下がった。両者のにらみ合いが続いた。 秀信は静かに口を開いた。晴信は秀信にすがりついている。秀信の手は、晴信の栗色の頭を優しく撫でていた。 「おじさま。晴信は、ここのところ続く託宣で疲労がたまっております。しばしの間、息抜きさせてやってはいただけないでしょうか」 男は顎を上げて嘲笑した。 「ハッ、何を言う! こんな未熟な巫子はいつだって息抜きしてるようなものじゃないか。かつてこの部屋に住んでいた先代の巫女は、晴信などとは比べ物にならなかったぞ」 そこで、男はふと気づいたようだった。「お前たち、どうしてふだん使っていなかったこの部屋に……」 口ひげを生やした執事が、一礼してから、男に申し出た。 「信行様。今日は、お客様がいらっしゃる日でございます」 執事の「お客様」という物言いは、どうにも含みがあるように凛太郎には感じられた。 そして、執事に目配せする秀信のまなざしにも。 明も凛太郎と同じことを思っていたようだった。きつい視線を、秀信と執事に投げかけている。 凛太郎が疑問を追求する間もなく、信行と呼ばれた男が凛太郎に無遠慮なまなざしを向けた。 男は慇懃無礼に、凛太郎に頭を下げた。 「これは、これは。清宮凛太郎さま。いや、様づけはおかしいかな? 私は、少なからず君とは血がつながっているのだから」 「えっ……」 凛太郎は姿勢を正した。 「そう。私は君の母親、明子の父……つまり、君の祖父、弓削信行だ」 凛太郎は喜びのあまり、息をのんだ。体中にあたたかいものが生まれていく。秀信に続いて、自分のもっと強い血縁に出会えるとは。父方の祖父母を亡くしていた凛太郎にとっては、喜び以外の何者でもない。 この男に抱いていた良くない第一印象がみるみるうちに晴れていく。 喜びにうちふるえる凛太郎を尻目に、明が警戒心をゆるめずに尋ねた。 「あんた、凛太郎のじいさんにしてはやけに若いな」 「貴様、信行様に無礼だぞ!」 そう叫んで、黒服の従者が明になぐりかかる。明は顔色ひとつ変えずに、従者の拳を片手で受け止めた。 室内に張りつめた空気が流れる。 秀信がフっと笑った。秀信の背広の裾を握りしめている晴信は、おびえと尊敬の入り交じったまなざしを明に送る。 「明、乱暴なことは……」 「わかってるって、凛太郎」 明はそう言って、従者のこぶしを振り払った。バランスを失った従者は、不格好に床に転倒した。 「さすがは、伝説の鬼・蒼薙だな」 男――弓削信行は、皮肉っぽく笑った。 「どういたしまして。昔っからあんたたちみたいな陰陽師やらなんやらに追っかけまわされてたおかげで、ケンカ慣れはしてるんだよ」 明は不敵な笑みを浮かべて、肩をすくめた。 「ちなみに俺、今は明って名前なんだけど覚えといてくれる? いつまでも伝統やら家柄やらにしがみついてる、あんたたちみたいなヤツらとは違うからさ」 「あ、明……」 たしなめようとする凛太郎の頭を明はぐりぐると撫でた。 「悪ィ、悪ィ。こんなヤツでもお前の爺さんだったな。ところでさっきの質問に戻るけど、あんたどうしてそんなに若いんだよ?せいぜい四十代ってところだろう? それとも処女の生き血でも飲んでンのか?」 「弓削家は代々、結婚が早い家系なのだ。私は十代で妻をめとった」 信行は、明のずけずけとした口ぶりにも怒ろうともせずに答えた。それでも、皮肉っぽい表情は消えない。 「へえ。まあ、ちょっと前までは凛太郎ちゃんくらいの年で結婚なんて当たり前だったからな」 明は一応は納得したようだった。 ふと何かを思いついたように、ニヤッと笑った。 「じゃあさ、そこのスケベ教師はどうしてまだ独身なわけ? それとも、もしかしてもう結婚してたりとか……」 秀信は首を横に振った。 「それは私の勝手だろう?」 秀信はまるで無関心な様子だった。自分の挑発に乗ってこない秀信に、明は頬をふくらませる。秀信の背中に隠れたままの晴信は、不思議そうに二人のやりとりを見つめていた。 凛太郎は明をつねりながら、秀信の端正な横顔をうかがっていた。これだけの容姿と頭脳を持ちながら、恋人の一人もいないということはないだろう。 (弓削先生の恋人って、どんな人だろう?) そう思いをめぐらせた時、秀信と目が合った。秀信に微笑みかけられて、凛太郎は頬を熱くしながらうつむいた。 凛太郎の様子に明は気づいて、秀信にあっかんべえをする。 「ところで、君……そのなんとお呼びしたらいいかな?」 信行に明は答えた。 「明大明神様とでも呼んでくれよ」 「ずいぶんとおちゃめな鬼神様だな」 信行は鼻で笑った。凛太郎はあわてて取りなす。 「あ、あの、明でいいですから……」 「ふん……明くん、とでもしておこうか。幾千の時を生きているといっても、見た目は私よりずいぶんと若いようだからな」 信行はそこで口調をあらためた。 「明くんのその名前は、どなたがつけたのかな?」 「こいつだよ」 明は凛太郎に抱きついた。 「俺の命。千年かけて、俺が待ち続けた相手」 「ほう、呪をかけられたのか。君のあるじはずいぶんと若いな」 信行は肩を揺らして笑った。明はムッとして言い返す。 「あんた、実の孫にもっと違う言い方できねえのかよ」 明の言葉に、信行はすぐさま笑うのをやめた。秀信が信行に目配せするのを、凛太郎は見のがさなかった。 「そうだったな。君は、明子の息子だという話だった。ということは、たしかに私の孫に当たるわけか」 信行の口調は淡々としており、何の感慨もふくんでいなかった。凛太郎は頬がこわばるのを感じる。もしかして、信行が自分を孫だとかわいがってくれるのではないかと期待していないと言えば、嘘になった。(バカだな、僕。テレビドラマじゃあるまいし……この人も、いきなり僕に会って、孫だなんて実感できないよね) 凛太郎はそう思い直して、信行に笑いかけた。信行はニコリともせず、凛太郎を見つめ返す。凛太郎の笑顔は凍った。 明が、くしゃくしゃと凛太郎の頭を撫でた。 凛太郎は「やめろよ」と口では言ったが、今は明の手のぬくもりが本当はありがたかった。 凛太郎は、秀信が気遣わしげなまなざしを自分に投げかけているのに気づいた。 「おじさま、凛太郎に一言かけてやってくださいませんか。せっかくの肉親の再会ではありませんか」 晴信を背にかばいながら、秀信は信行にそう声をかけた。 信行は鼻を鳴らす。 「そうだったな。魑魅魍魎御殿にようこそ、凛太郎くん」 凛太郎が信行の言葉を理解しかねるうちに、信行の興味は晴信に移っていた。 「晴信! 祭祀へ戻れ」 晴信はビクっと身を震わせて、秀信の背広の裾にすがりつく。 それを見て取った祥は、信行に申し出た。 「信行様。晴信様は今日、親戚にあたる凛太郎様に会われて、大変喜んでいらっしゃいます。今日一日は、晴信様の巫子としてのつとめは免除してさしあげてはいただけないでしょうか」 「それはできない相談だな」 信行は冷たく言いはなった。晴信が困ったように、秀信を見上げる。 祥が身を乗り出して言いつのる。 「お言葉ですが、信行さま。晴信さまは今日という日を楽しみにしてこられたのです。それに今後は、凛太郎さまの修行が始まり、晴信さまはその手助けをなさらなければなりません。ですから、純粋に二人が交流のために過ごせる日は、実質、今日のみなのです。どうかご容赦のほどを……」 「そんな口は、晴信が先代の巫女と同じ働きができるようになってから叩くんだな」 信行は酷薄に笑った。さらに凛太郎に冷笑を向ける。 「それにこのわが孫とやらが、どんな働きができるというのだ? 明子がどこぞの馬の骨やもしれぬ男と作った子供が……」 祥が青ざめて叫んだ。凛太郎の胸は、ガラスのようにひび割れた。 「信行さま!」 「おい、てめえ!」 ついに明が信行につかみかかった。 「明、やめ……」 凛太郎が制止しようとした瞬間。 明の動きは止まっていた。ストップモーションをかけられたかのように、目を見開いて信行の前に棒立ちになっている。 明の額には、奇妙な符号が書かれた札が貼ってあった。 「私の陰陽師としての腕も、まんざら衰えてはいないようだな」 勝ち誇ったように信行は言い放った。 「千年の時を越えて、生き延びた鬼の動きをこうも簡単に封じられるとは」 明に信行はつかつかと歩み寄った。めずらしい動物でも見るように、微動だにしない明の顔をのぞきこむ。 その表情に、尋常でない凶悪さを感じた凛太郎は、とっさに叫んでいた。 「やめてーっ!」 凛太郎の制止もむなしく、信行の拳は明に向かって振り下ろされた。 凛太郎は見ていられなくなって、両目を閉じた。 だが。 なんの気配も起こらなかった。 凛太郎はおそるおそる目を開けた。 すると、信行の手は、秀信によってつかまれていた。 「は、離せ、秀信! この生意気な鬼をこらしめてやるのだ!」 信行はもがいたが、秀信はビクともしなかった。 秀信の唇が動いた。 途端に、明の額に貼られた札がハラリと落ちた。 明はようやく体の自由が戻ったのか、ゼエゼエと肩で息をした。 「こいつ……呪符なんか使いやがって」 明は憎々しげに信行をねめつける。 「鬼のお前には、それがお似合いだ」 信行は低く笑った。いつのまにか、信行と秀信の周りを黒服の男達が取り囲んでいた。男達の攻撃に満ちた視線は、秀信に集中している。 「秀信。私にこんな態度を取って、晴信ともどもお前がどうなるのかわかっているだろうな?」 秀信に手首をつかまれたまま、信行が恫喝した。 「兄さん!」 「秀信さま!」 「先生!」 晴信、祥、そして凛太郎が口々に秀信を呼んだ。 「心配するな」 秀信は薄く笑った。 「いけ!」 舌打ちした信行が、黒服たちに一斉に秀信への攻撃を命じる。 その瞬間に、秀信は低くささやいた。 「とかげ」 途端に、信行の血相が変わる。 「よせ」 信行は黒服たちに攻撃中止命令を出した。 秀信はフッと笑って、信行の手首を解放した。戦意を喪失した敵にお情けを与えるような目つきを秀信はしていた。 「おじさま、今日はわが弟の自由行動を認めていただけますね?」 秀信は眼鏡のふちを持ち上げながら尋ねた。 「……勝手にしろ!」 捨てぜりふを残して、信行は黒服たちを引き連れ、部屋から出て行った。 明はその背中にあっかんべえをしていた。 「兄さん、嬉しい!」 秀信の腰に、晴信が飛びついた。 「よかったね、晴信くん」 凛太郎がそう呼びかけた途端、晴信はもじもじとうつむきながら秀信にしがみついた。 「ほら、ちゃんと凛太郎に返事をしたらどうだ、晴信」 晴信は、秀信の言葉に上目遣いで凛太郎に何か言いかけるが、すぐに口をつぐんで、秀信の背中に隠れてしまう。 祥はそんな晴信の姿を微笑ましげに見つめていた。 秀信は晴信の頭をくしゃくしゃと撫でた。秀信のその手つきが、自分の頭を撫でるのと同じことに、凛太郎の信行によって凍てついた心がややほぐれる。 (先生は、ああやっていつも弟さんのことをかわいがってらっしゃったんだ) 普段、まったく隙を見せない秀信が、そういった側面を持っていたことは凛太郎にとって親しみが持てる事実だった。 秀信は、凛太郎があきれていると思ったのか、晴信のための弁解を始めた。 「すまないな、凛太郎。晴信は、弓削家の巫子の役割を果たすために、めったに外界へ出ることを許されていない。だから、極端に人見知りなのだ」 「晴信さまに懇願されて、私が鬼護神社に晴信さまを連れて行った時も、見張りの目をかわすのが大変でしたからね。あの時は、晴信さまは街の様子にずいぶん心ひかれているご様子で、祥はよそ見ばかりしている晴信さまが車にはねられるのではないかと心配で仕方ありませんでした。ね、晴信さま」 「……祥のバカ」 晴信は、ふくれっつらで祥に口をとがらせた。その愛らしい様子に凛太郎が思わず笑いを漏らすと、晴信はしゅんとして兄の背中に隠れた。 「僕、君のことが可愛くて笑っただけなんだ。バカになんかしていないよ」 凛太郎が言葉をかけると、晴信は顔を上げた。その大きな双眸はキラキラと輝いて凛太郎に向けられた。ゆでだこのようになった晴信の頭を秀信はふたたびくしゃくしゃと撫でる。 兄弟の仲むつまじい様子は、凛太郎のこわばっていたこころをかなり回復させた。 (きっとあの人も、いきなり孫に会ってびっくりしたんだ……父さんと母さんの結婚には反対していたみたいだし) 凛太郎はそう考えることにした。 けれど、信行のことを祖父と思うことはできない。 「ねえ、先生」 凛太郎は晴信に目を細めている秀信に尋ねた。 「さっき先生、とかげ……とかって、信行さんにおっしゃいませんでしたか?」 「そうそう、俺にもそう聞こえた」 明が相づちを打つ。 秀信はニヤリと笑いながら言った。 「あの方は、とかげが大の苦手なのだと昔、聞いたことがあるのでな。試しに言ってみた」 「え、そうなの? おじさまって、とかげがお嫌いなんだ。今度僕、つかまえて来て見せてみようかなあ」 晴信がパッと顔を輝かす。 「こら」 秀信は、晴信の栗色の頭をこつりと軽く殴った。 「いたあい」 晴信がてへへ、と頭をさする。 晴信の子供らしいしぐさに心なごませている凛太郎は気づかなかった。 秀信と祥が、信行をはるかにしのぐ悪意をしのばせて、目くばせし合っていることに。 それから凛太郎たちは、秀信の案内で屋敷を巡った。 ずっと晴信は、秀信の背広の裾をつかんで歩き回り、凛太郎をきらきらした目で見つめ続けた。 だが晴信は凛太郎と目が合うと、すぐにそらして秀信の背中の陰に隠れてしまう。 それを祥はからかい続け、晴信はムキになって怒り、凛太郎が思わず笑うとまた真っ赤になって秀信にしがみつく……。 その繰り返しだった。 二人のやりとりから察するに、どうやら祥は晴信の世話係のような役目も引き受けているらしい。 おとなしい晴信も、祥にはずいぶんくだけた口調で話していた。 そうしていると、この巫子という特殊な境遇に置かれた少年も、年相応の元気な少年に見えると凛太郎は思った。 屋敷の敷地はたいそう広く、ざっと見て回るのに数時間はかかった。 さりげない様子で、国宝級の細工が施された骨董品や器物があるので、凛太郎は賞賛の声を上げることもしばしばだった。 祥は誇らしげに、凛太郎にそれらの解説をしていた。 晴信はその間、退屈そうにぼんやりと懐から古びた毬を出していじっていた。どうやらその毬は晴信の愛用品らしい。元はかなり流麗な細工がなされていたそれは、今や所々ほころびていた。 秀信にいたっては、それらの宝物を粗大ゴミでも見るかのような視線を投げかけていた。 凛太郎は秀信の醒めたその視線が気がかりだったが、どうにもその理由を訊けるような雰囲気ではなかったので、黙っておいた。 秀信が唯一、興味深い反応を示したのは、敷地の隅にある古井戸だった。 「僕、井戸なんて本当に見たの、初めてです」 凛太郎が古ぼけたそれをのぞきこむと、秀信はフッと笑った。 「古代から井戸は、黄泉の国に通じるというからな。この中に身を投げて確かめてみるか?」 「や、やめてくださいよ、先生。冗談きついです……ねえ、明?」 凛太郎はぞっとしないものを感じながら、明を振り返った。 いつもは陽気な笑みをたたえている明の顔面が蒼白になっていた。 そういえば、明は屋敷を巡っている最中もおとなしかった。 「どうしたの、明?」 「べ、べつに。なんでもねえよ」 明はそれだけ言うと、そそくさと井戸から離れていった。凛太郎は首をひねるばかりだった。 やがて日も落ち、凛太郎と明は祥の運転する車に乗って、自宅への帰路についたのだった。 ジャンル別一覧
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